『鉱 ARAGANE』68min. / 2015
NOTE on ‘ARAGANE’
I found an extraordinary kind of aesthetic beauty in the world down below and in the building itself, even if it is dirty or run-down. It looks like a different universe with all the mist and dust everywhere. There is a beauty in the industrial machines, the headlamps that produce strange reflections, and the miners’ communication without eye contact, using nodded signals or whistles instead of speech. When one works down there, there is a sort of adrenalin rush that remains high throughout the whole shift, even when workers are exhausted.
I was attracted by miners, their physical works, and the underground that looked like a completely different universe from the surface we live.
The mine and miners I shot gave me a chance to capture them and make the film, and then I wonder if I can contribute back something for them with my film.
They are not visible.
If my film could be a chance or give some moment that people could feel how it is underground and remind our self of where our energy sources comes from, that shall be a return I can give back for those miners and the mine that allowed me to be with them for the film.
『鉱 ARAGANE』について
地下の世界に魅せられた。
跳ねる泥、漂う塵、舞う土埃、重機から散る霧、坑夫の方たちから昇る蒸気、肉体を打つ幾重にもなった機械音。
それら全てに圧倒的な美しさを感じた。
地中に広がる宇宙だった。
ほぼ唯一の光源であるヘッドランプに照らされるのは、各々の足場、ツルハシの鋒、坑夫の方たちの顔。照らされない空間は闇。特に、人のいない古い坑道は、左右上下を溶かす、飲み込まれそうな深い黒だった。
光にも闇にも、独特の美しさとこわさがあった。
撮影地のブレザ炭鉱には偶然出会った。もとはカフカの『バケツの騎士』を原作とした短編映画制作のため、取材目的で訪れたが、その空間と坑夫の方たちの佇まいに一目惚れしてしまった。初回は地下には入れてもらえなかったが、二度目に訪れた際には、安全管理の責任者の方と一緒に潜らせていただいた。私は地下で活動するためのトレーニングを受けていないため、撮影時にはいつもこの方が付き添ってくれた。地下にはじめて入り、その異次元空間と坑夫の方たちの労働に魅入り、『鉱 ARAGANE』の制作を決めた。あの美しさをただ撮りたかった。
決して、過ごしやすい環境とは言えない。太陽の光が微塵も届かない空間に何時間もいるというのは。空気孔が通っていると言っても、空気が薄いと感じることは多々あったし、むき出しの重機やベルトコンベアーに巻き込まれると身体のどこかがとぶ。振動として身体に訴えてくる騒音は慣れて感覚が麻痺するまでしばらくかかった。頭を振ったり口笛を鳴らしてコミュニケーションをとっている坑夫たちの伝達が食い違えば、容易に事故が起こるし、坑の中で命を守るため、万全を期することはないと言っていい。それでも、坑夫の方たちは毎日地下で8時間働く。お金を稼ぐためであるし、ボスニア全土に資源を供給しているという自負もあるという。炭鉱での労働は過酷なものだが、作業中にはアドレナリンが駆け巡っている、坑に入ったことのある者なら地上での仕事はできないよ、とある坑夫が話してくれた。
坑夫の方たちとブレザ炭鉱は、私にこの映画をつくる機会を与えてくれたけれど、私はこの映画で彼らに何かお返しをすることができるだろうか。
彼らは不可視だ。坑内の異次元の宇宙は、不可視の彼らの身の危険と隣り合わせで、いまも広がっていっている。
私たちの生活の資源がどこから来て、それがどんな場所なのか、もしもこの映画がそれらを表す瞬間を生み出せるなら、一緒にいさせてくれた彼らに対して少しでも返礼となるのかもしれない。同じ地球上にこんな空間があること、そこに坑夫の方たちがいまも存在することを体感していただければ嬉しい。
小田香
<評>
映画の始まりへの旅
樋口泰人(映画評論家・boid主宰)
1999年に作られた最初の『マトリックス』は、世紀の変わり目にふさわしい映画だった。かつてないやり方でデジタル処理された画面は、映画における時間と空間の概念を変え、わたしたちに新しい視覚をもたらしてくれた。その一方で、電話ボックスに突っ込むトラックの錆びついた重量級のボディ、船内の配線や機械類の黒々とした物質感、あるいは敵勢力の攻撃マシンの鈍い金属の輝きなど、そこには鉄と油の匂いが充満していた。
19世紀末、世界は蒸気機関から電気動力、内燃機関動力へと、そのエンジンを移していく。映画もそれらとともに生まれ、成熟した。カメラや映写機の歯車の回転によってフィルムは進み、物語も進み、それは人生と同じで後戻りできない。カタカタという回転音、その回転をスムーズにするための油の匂い。映画はそんな場所にあって、その鉄と油の匂いとともに未来を夢見ていた。たとえば鉄のひんやりとした手触り、油のぬめりと黒い汚れの感覚。フィルムにはそんな触感が張り付いていて、それは生きていることの痛みや悲しみの感覚として、私たちの心に深く沈殿して行ったはずだ。
ボスニアの炭鉱、地下300メートルに潜っていく鉱夫たちの姿を捉えたこの映画は、その意味で20世紀の映画のふるさとを訪ねる旅とも言えるだろう。暗闇の中にトロッコで入っていく鉱夫たち。映写機は歯車がフィルムを回すが、トロッコでは地面に敷かれたフィルムにも見える線路の上を、車輪が回る。鉱夫たちがヘルメットにつけたライトはそれぞれの映写機の光源ということになるだろうか。暗い坑道にいくつもの光が当てられ、それによってそれぞれの坑夫の視線の先がわかる。もちろんそこにあるのは単なる壁なのだが、彼らはいったいそこに何を観ているのだろうか? そしてその壁はこれまでいったい何人の坑夫たちから、そのようにして観られたのだろうか? 坑夫たちの視線の先が、そこに少しずつ重ねられていく。わたしたちは単なる坑道の壁を見ているだけではなく、坑夫たちの夢の重なりを見ているのだと言えないだろうか。つまり、沈殿した「映画」のかけらの堆積を観ているのだと。
面白い映画もある、つまらない映画もある、泣ける映画も笑える映画もあるし成功した映画も失敗した映画もある。坑夫たちは労働条件に不満を漏らし、実際その現場は本当に命懸けだ。さまざまな夢が重なり合い溶け合った夢の空間は常に危険と隣り合わせである。安全地帯では夢は見られない。そんな暗い夢の空間に入れるのは実はデジタルカメラなのだと、この映画が証明する。その機動性や光の感度など、坑道の中に入って坑夫たちの傍にあることのさまざまな条件をそれがクリアする。20世紀に夢見られた夢の集積を、21世紀のデジタルな視線がひとつひとつ解きほぐし、かつてそのように夢見られたかもしれない小さな夢の物語へと戻していく。鉄と油の夢からデジタル信号による夢へ。夢の集積からひとつひとつの小さな夢へ。映画の役割は変化し、しかし逆にさらなる歴史の原初へと、それは遡ろうとしているようにも思える。この映画の最後の真っ白な雪原には、映画の始まりの小さな夢が映されることになるだろう。
<コメント>
◉被写体を美しく見せることより、美しい被写体を見ることの無上の悦びに徹したこの監督は、見ることの悦びをいくえにも増幅させる驚くべき傑作を撮り上げてしまった。
それは、必然的な奇跡以外の何ものでもない。
———蓮實重彦(映画評論家)
◉あなたも観るべき強烈な作品。私は好きだ。
———ガス・ヴァン・サント(映画監督)
◉『鉱 ARAGANE』は暗闇の交響曲であり、塵と深度の感覚的な世界への旅だ。
———アピチャッポン・ウィラーセタクン(映画監督)
◉わたしたちは単なる坑道の壁を見ているだけではなく、坑夫たちの夢の重なりを見ているのだと言えないだろうか。つまり、沈殿した「映画」のかけらの堆積を観ているのだと。
———樋口泰人 (映画評論家・爆音映画祭ディレクター)
◉これは詩だ。闇の中で言葉以前の音と光と汗とが激しくぶつかり合い、打ち震える。これを観た誰もが、自分の中の詩的鉱脈の存在に気付くだろう。これは見知らぬ炭鉱ではなく、我々自身の精神の地下世界なのだ。
———吉村萬壱(小説家)
◉近代を支えた深奥へ。
そこで震えやむきだしの音を体感し、闇を切り裂く光を目撃する。
ヘッドランプをつけた坑夫だ。
しかし、逆光ゆえに、彼らの顔を正面からとらえることはできない。
その姿は異界の聖人のようだ。
———五十嵐太郎(建築評論家)
◉小田香さんとは作品を観る前に一度会ったことがある。
不敵な笑みの堂々たる女傑という印象で、それは『鉱 ARAGANE』を観て、改めて当然だと思った。
光のない地の底に引かれたレールを、不気味な軋みを響かせ、ゆっくりと貨車が動く。
延々と捉え続けるそのショットに、生命が死に絶えた世界をはじめて見た気がした。
———七里圭(映画監督/『眠り姫』)
◉丁寧に写された瞬間の連続によって、地底の世界が描かれていく。魅入ってしまうと同時に、どれほど過酷な状況に身を晒していたのだろうと思いを馳せる。
轟音と振動の止まない暗闇に居ながらも、小田さんの眼差しには「潔さ」と「繊細さ」の両方が持続し続けている。
———小森はるか(映像作家/『息の跡』)
◉小田香は新しい世界を発見しているのか。
それとも、創り出しているのだろうか?
明らかに、両方である。
———ジョナサン・ローゼンバウム(映画批評家)
◉サラエボのfilm.factoryにゲストとして訪れた際にこの映画を観た。
小田香は勇敢にも地中深い坑に降りて男たちを追い、厳しい労働のイメージを私た
ちに届けた。
私は感銘を受けた。すばらしい映画だ。
————ジェームス・ベニング(映画作家)
◉この古いボスニアの炭鉱の深い坑道の中、ツルハシと勇気をもって、男たちは石炭
を採掘する。
この古いボスニアの炭鉱の深い坑道の中、ヘッドライトとカメラと真の正直さをも
って、小田香は純金を掘り出した。
混じり気のない、映画的で人間的な黄金だ。
————ティエリー・ガレル(アルテ・フランス/ヨーロピアン文化チャンネル前ディレクター)
2015年/ボスニア・ヘルツェゴビナ、日本/DCP/68分
監督・撮影・編集:小田香
監修:タル・ベーラ
プロデューサー:北川晋司/エミーナ・ガーニッチ
配給:スリーピン 提供:film.factory/FieldRAIN